2005/10/05

愛・地球博の最終日は黄昏の思い(3)

今回は「博覧会は果たして地球規模の問題解決の場となり得たのか」について。
私はそもそも、「博覧会は地球規模の問題解決の場である」とする考え方に大きな違和感を覚えている。それは博覧会の持上げ過ぎであり、博覧会をそんなにおだててどうするの、と思ってしまう。
で、愛・地球博を終えて、この考えを変えなくていかん、ということは起こっていない。この考えはより強固なものとなっている。
博覧会は最新技術の陳列場であり、このグローバルな現代にあって、最新技術とは地球規模のものとなるのは必然だろう。
しかし「地球規模の問題解決」というと「最新技術の陳列」を超えた期待がこめられていること感じるが、果たしてそれは何なのか。例えば広がる飢餓と貧困、テロなどどいう「地球規模の問題」の解決の場なのか。
今回の博覧会では、赤十字のパビリオンが話題となり、マスコミにもしばしば取り上げられた。私は観ていないが、内容は平和を訴えるものであったという。そのメッセージは否定しないが、ではそれが問題解決であるのか。
この「地球規模の問題解決」という言葉には、見失われつつある国際博覧会開催の意義への大袈裟な埋め合わせを感じてしまう。博覧会をそこまで理想化することへの違和感、理想主義に向かう博覧会の危うさを感じる。この理想主義はフランス人の感覚なのかなあ。私には馴染めない。理想の仮面をかぶった悪魔の囁きに聞こえる。よって反発を覚える。
地球規模の問題解決は、博覧会を待つまでもなく、より多様多面、重層的に、忍耐強く継続して取組むべきものであるというのが私の常識観である。
今回の愛・地球博について言えば、「テロ」や「大規模自然災害」といった地球規模の問題が起きなかったことを多としたい。
愛・地球博が「地球規模の問題の解決」であり、「そのシンボルがバイオラングと市民参加です」なんて言われると、正直、驚いてしまう。 「オイそれはイカンだろう」と私の感性が反発する。

愛・地球博の最終日は黄昏の思い(2)

1 博覧会は果たして地球規模の問題解決の場となり得たのか。
2 果たして「市民参加」は実現したのであろうか。
3 会場では「祝祭の感覚」に溢れていたか。
これが当初、私がポイントにした課題だが、この点についてのコメントの前に、いくつかの評価をおこないたい。
会場に行く前に楽しみにしていたのが、グローバルループの創り出す会場風景であった。最終日は大変な混雑で、会場風景は“人・人・人”となったが、それでも、このアイデアは出色であったと感じられた。
外国館をまとめたグローバルコモンも規模が手頃で好感がもてた。「これなら2日で見られるな」と思った。ハノ?バーの会場は「1週間はかかのではないか? 誰がみるんだ?」と思ったが、全体としても手頃な規模であったかと思う。瀬戸会場は規模も小さく、あえて2会場とする意味も薄れていたと思うが、それはあとからの話しで、それは言うまい。
以上、会場計画はとても「よくできていた」と思う。運営についても、あれだけの混雑にもかかわらず、混乱や殺気は(多少はあるにしろ)見られず、スマートであったと思う。関係者の苦労の賜物であると思われる。個々のパビリオン、展示については、前回に述べたように見ていないが、屋外展示の「バイオラング」については、ちょっと複雑な感想。この理由はまた後で述べる。「大型映像」はきれいでした。
以上の評価をまとめると「よくできた」博覧会であったと思う。それは当ブログで以前にも述べた「浜名湖花博」の感想にもつらなるものであり、日本という国の「成熟」がこの“博覧会成功”の基盤になっていると思う。
そこまでいくと「成熟」とは「黄昏」であることに思いが至る。あれだけの数の人の来場、その多くはシルバー層、混雑の割りには静寂ともいえる落ち着いた雰囲気に、「日本の成熟、そして黄昏」を感じた。この点については「浜名湖花博」への評価を改めてフィードバックしつつ、立ち戻りたい。