愛・地球博の最終日は黄昏の思い(3)
今回は「博覧会は果たして地球規模の問題解決の場となり得たのか」について。
私はそもそも、「博覧会は地球規模の問題解決の場である」とする考え方に大きな違和感を覚えている。それは博覧会の持上げ過ぎであり、博覧会をそんなにおだててどうするの、と思ってしまう。
で、愛・地球博を終えて、この考えを変えなくていかん、ということは起こっていない。この考えはより強固なものとなっている。
博覧会は最新技術の陳列場であり、このグローバルな現代にあって、最新技術とは地球規模のものとなるのは必然だろう。
しかし「地球規模の問題解決」というと「最新技術の陳列」を超えた期待がこめられていること感じるが、果たしてそれは何なのか。例えば広がる飢餓と貧困、テロなどどいう「地球規模の問題」の解決の場なのか。
今回の博覧会では、赤十字のパビリオンが話題となり、マスコミにもしばしば取り上げられた。私は観ていないが、内容は平和を訴えるものであったという。そのメッセージは否定しないが、ではそれが問題解決であるのか。
この「地球規模の問題解決」という言葉には、見失われつつある国際博覧会開催の意義への大袈裟な埋め合わせを感じてしまう。博覧会をそこまで理想化することへの違和感、理想主義に向かう博覧会の危うさを感じる。この理想主義はフランス人の感覚なのかなあ。私には馴染めない。理想の仮面をかぶった悪魔の囁きに聞こえる。よって反発を覚える。
地球規模の問題解決は、博覧会を待つまでもなく、より多様多面、重層的に、忍耐強く継続して取組むべきものであるというのが私の常識観である。
今回の愛・地球博について言えば、「テロ」や「大規模自然災害」といった地球規模の問題が起きなかったことを多としたい。
愛・地球博が「地球規模の問題の解決」であり、「そのシンボルがバイオラングと市民参加です」なんて言われると、正直、驚いてしまう。 「オイそれはイカンだろう」と私の感性が反発する。
愛・地球博の最終日は黄昏の思い(2)
1 博覧会は果たして地球規模の問題解決の場となり得たのか。
2 果たして「市民参加」は実現したのであろうか。
3 会場では「祝祭の感覚」に溢れていたか。
これが当初、私がポイントにした課題だが、この点についてのコメントの前に、いくつかの評価をおこないたい。
会場に行く前に楽しみにしていたのが、グローバルループの創り出す会場風景であった。最終日は大変な混雑で、会場風景は“人・人・人”となったが、それでも、このアイデアは出色であったと感じられた。
外国館をまとめたグローバルコモンも規模が手頃で好感がもてた。「これなら2日で見られるな」と思った。ハノ?バーの会場は「1週間はかかのではないか? 誰がみるんだ?」と思ったが、全体としても手頃な規模であったかと思う。瀬戸会場は規模も小さく、あえて2会場とする意味も薄れていたと思うが、それはあとからの話しで、それは言うまい。
以上、会場計画はとても「よくできていた」と思う。運営についても、あれだけの混雑にもかかわらず、混乱や殺気は(多少はあるにしろ)見られず、スマートであったと思う。関係者の苦労の賜物であると思われる。個々のパビリオン、展示については、前回に述べたように見ていないが、屋外展示の「バイオラング」については、ちょっと複雑な感想。この理由はまた後で述べる。「大型映像」はきれいでした。
以上の評価をまとめると「よくできた」博覧会であったと思う。それは当ブログで以前にも述べた「浜名湖花博」の感想にもつらなるものであり、日本という国の「成熟」がこの“博覧会成功”の基盤になっていると思う。
そこまでいくと「成熟」とは「黄昏」であることに思いが至る。あれだけの数の人の来場、その多くはシルバー層、混雑の割りには静寂ともいえる落ち着いた雰囲気に、「日本の成熟、そして黄昏」を感じた。この点については「浜名湖花博」への評価を改めてフィードバックしつつ、立ち戻りたい。
愛・地球博の最終日は黄昏の思い(1)
愛・地球博の開催会場にはじめて行った。最終日である。どのタイミングで見にいくべきか。何とか夏休みの前と思っていたが、身辺落ち着かないままに見送りとなり、とうとうここまで来てしまったということだ。 この日の来場者は24万人、開催日で4番目の来場者数となったとのこと。人気の民間パビリオンはもとより、外国館も大変な混雑で数えるほどしか見ることができなかった。そんななかで強く印象に残ったのは・・・
第1の印象 アフリカの国々のゾーンのステージに出ていた、コーラス&ダンスグループはめちゃくちゃカッコ良かった。歌手が男二人に女が一人、ダンスの担当は女二人に男が一人、そして歌もダンスもOKの男性リーダーの合計7人。ともかくダンスの躍動感がたまらない。
第2の印象 というより残念な思い出。イタリア館の「踊るサチュロス」を見逃してしまった。以前から、「踊るサチュロス」は見たかった。そのために博覧会に行ってもいいとさえ思っていた。にもかかわらず、この日そのことはまったく失念していたんだなあ。一旦はイタリア館に入ろうと列に並んだのに、前のカップルがうるさく目障りだったため、列を離れてしまった。「踊るサチュロス」を失念したままで。そして会場から名古屋駅に向かう帰りの電車の中で「踊るサチュロス」を思い出した。これは忘れられない残念な思い出。
第3の印象 「鯉の池のイベント」はひどかったなあ。ロバートウイルソンだって? そいつが何をしている奴なのか、オレは知らんぞ! でもやっていることはクソだ。まったくのクソ。実は「鯉の池のイベント」はプレで負けただけに「こんなクソに負けたのか」と思うと悔しさひとしお。ああ、悔しい。誰だ!ロバートウイルソンやロリーアンダーソンなんてクソ前衛の気取り屋なんて選んだバカは。これが終了間際の印象。 それで、以上の直感的な印象を含めての「評価」は次回に。
「アースデイ東京2005」と「愛・地球博」
4月24日に「アースデイ東京2005」
http://www.earthday-tokyo.org/に出かけた。友人の中島悠さんが事務局を努めており、その案内もあったが、前から「行かなくては」と思いつつ行けなかったうえ、特に今年は「愛・地球博」のこともあり、行く気分になっていた。
話は飛ぶが前日の4月23日のFM放送を車で聴いていたら「愛・地球博に行こう」というテーマの番組があり、博覧会の紹介がされていた。その紹介のありかたが「マンモスやロボットばかりではないですよ、世界からいろんなものが集まっているから行きましょう」というもので、時代感覚とちょっとズレたこの博覧会への「率直な評価」に微苦笑を誘われた。
また新聞では、自然体験をテーマとするエリアの来場者が少なく、「地球市民村」も来場者増加にむけてゲートを作る云々の記事が掲載されていた。実は「地球市民村」は企画段階でかかわった経緯があり、そのことがアースデイに行くにあたっての大きな関心となっていた。
関心というのは「集会」としてのイベントの魅力である。マンモスやロボットは「陳列」としての魅力であり、「世界から集まる」といいう言葉には「集会」の意味が含まれている。
2005年の日本において開催される国際博覧会の魅力、あるいは基本的な価値とは「集会」であると私は考えている。「愛・地球博」も「地球大交流」を掲げているが、それはどこまで実体化されているのか。私はまだ行っていないのでわからないが、あまり見えてこないのが残念だ。
そして「地球市民村」は、この「集会」としての価値を最も端的に示すものであるはずなのだが、そのように作ってはいない。本来であれば「集会」としての博覧会の顔となるべきなのにハナから放棄していたのが、私が準備段階でかかわっていた「地球市民村」である。
「集会」とは「さあ行ってみよう」と仲間を誘う感覚により支えられる。この仲間を誘い合う感覚が、祝祭の感覚のベースとなる。誘い合いを広げるには「明るく開かれた心」と一寸の虫にも五分の魂といった「志」が欠かせないが、私の知る「地球市民村」担当会社にはそれはまったくなかったなあ。いやあ、ひどかった。「金がない」ことを前面に立てて萎縮していたけど「集会」は金がなくても実現可能というより、金がないからこその「集会」というのは「アースデイ東京2005」が証明している。
「地球市民村」はNPOを員数合わせとして集めはしたが「集会」ではない、というのが私の認識である。NPOの「陳列」ではあっても、NPOの仲間を誘い合った「集会」ではない。この落差は大きい。
では「アースデイ東京2005」はどうだったか。見事なまでに「集会」としての魅力を横溢させていた。仲間を誘い合い、集まった人々を仲間として認め合い、その安心を分かち合い、歓びあう「集会」であった。
冒頭に述べたように、開催日の前日には中島悠さんからのメールがあった。仲間からの「集会」へのお誘いである。当然そうであろうと思ってはいたが「地球市民村」からはこれまで何のお誘いも案内もない。「愛・地球博」としてはチーフプロデューサーの福井昌平さんより真摯なご案内のお手紙をいただいた。要は博覧会をどのように捉えるかという意識と熱意の問題なのだ。
次いで本日、東京国際フォーラムで開催されているラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)に行ってみた。中には入らず外から覗いただけだが、これも一つの「集会」であり、春の風の中に多くの人々が和んでいた。
最後に「アースデイ東京2005」で面白かったのはテイストとしてのアジア。なぜイランやアフリカはいないのだろう。竹下通りではアフリカの人がビラを配っているがここにはいない。それと忌野清志郎のパワー。「集会」にピタリはまったのりのりライブでした。
愛・地球博開催への私の期待
3月25日より「愛・地球博」が始まる。今朝の朝日新聞の「ひと」欄ではチーフプロデューサーの福井さんが紹介されていた。「オープン後の10日間が勝負」とのことであったが、まったく同感。こうしたビッグイベントは出だしの反応や評判が重要だが、今回の博覧会は特に気になるところだ。彼は期待と不安のないまぜになった心境のなかで、祈るようにその時を待っていることだろう。
「愛・地球博」は大きな向かい風の中で、ようやく開催にこぎつけた。向かい風としてマスコミに取り上げられのは、主に会場地での環境保護問題であったが、その点は開催にまでこぎつけたことで、ある解決に至った。ここで指摘したい「向かい風」とは、博覧会というイベントそのものに対する向かい風である。
果たして、いま、博覧会とは有用であるのか。であれば、どのように有用であるのか。博覧会において環境問題は相応しいテーマであるのか。BIEは新たな国際博覧会の意義として「問題解決」をあげているが、それは見失ってしまった目的を穴埋めするスローガン以上にリアリティがあるのか。
これらの疑問は多くの人が指摘してきたところであり、私自身もそうした疑問をもち、正直なところ、明確な解答は得られていない。論としては、これらの疑問への反論や対案は用意できるが、「果たして本当にそうなのか」を確信を持って確かめられるのは、実際の「その場」となる。それ以外にはない。
大袈裟なものの言い方となるが、「オープン後の10日間」は、これらの疑問への解答、あるいは解答への入口となるはずと思っている。
こうした前提のうえに、「愛・地球博」に何を期待するのか、何を見たくて会場に行くのか。
私は「グローバルコモンズ」を大いに楽しみにしている。ここは今までの博覧会では「外国ゾーン」といった名称であり、国際博覧会のハイライトである。それを「グローバルコモンズ」と名付けたところに今博覧会への基本的な視点があると考える。ある期待がこめられている。
日本のグローバル化とはいったい何か、それはどのような風景となるのか。そこには文字通りグローバルな「祝祭の感覚」が自然と生まれていくのか。その光景の中に「世界が一堂に集まることの意味」は見出されるのか。
私は新技術のショーケースとしての博覧会の意義は、いまだに博覧会を成立させる基盤ではあるが、その重要性は変質していると考える。
端的には「ショーケース」そのものよりも、「ショーケース」をマグネットとして交わされる「交歓」こそが国際博覧会の意味と考える。
会場に訪れるのは限られた人々であるが、そこに「世界の人々が集う祝祭」が描かれるか。もし描かれるとしたら、博覧会は新たな意義を自ら見出すことになるだろう。私なりに期待をもって見つめたい。
イベントの持つ力=多事多縁と集団的創造力
この文はイベント学会の会報誌に掲載したものです。
イベント学会のホームページにも掲載されています。
http://www.eventology.org/essay/02.html
かねがね「イベントとは目的を達成する手段である」との定義(?)には釈然としない思いを抱いてきました。
イベントは集団的な創造活動ですから、集団に動機を与え、行動への意志を束ねる「目的」が重要であることは自明です。何も「それは違っている」というつもりはありません。
しかし、「イベントは手段である」というのは、イベント固有の特性を何ら示してはいません。また、目的と手段というのは階層的な関係にある相対的な概念であり、本来イベントは手段であると同時に目的としての機能を内在しているはずです。
ここではこうした疑問から、イベントが現在の私達の社会にもたらす力について、私自身の思うところを述べます。
まずあげたいのはイベントの『縁』を起こす力です。私は個人がいまの社会を生き抜くキーワードとして『多事多縁』という言葉をよく使います。『縁』とは 人が生きていくうえで欠かせない、「安心」と「希望」を支える人間の帰属関係のあり方を指すものです。地縁、血縁、職場縁といった全人格的な帰属集団の有 効性が低下していくなかで、人は部分的な人格を帰属させる『多くの縁』をもつことで、「安心」と「希望」を、「日々の楽しみ」を得ようとしています。多く の新しい事に関われば多くの縁が生まれ、広がっていきます。
イベントという限定的な『事』に試みに参加するなかで新たな『縁』を広げる……。私はそこにイベントの一つの可能性をみています。コンベンション、パーティ、バザー、フリーマーケットなどの『縁起イベント』に注目です。
と同時に、こうしたイベントを評するにあたり、「手段なのか、目的か?」という二項対立の論点整理が、私には、なじまないのです。
次にいきます。私はイベントの基本的な特性は『集団性』にあり、「集団への帰属を共通感情として分かち合う」イベントの力に着目すべきと考えています。 何らかの価値観や嗜好を同じくする『集団』が、価値観をシンボリックに表現した時間・空間(イベント)をライブに共有し、高揚する共通感情のなかで、自己 と帰属集団との関係をお互いに発見しあうといったシナリオはイベントならではのものでしょう。
遠くは古代国家の祭礼、近くはナチスの党大会などにその証明を求めることができますが、その話はさておき、集団の共通感情をいかにマネージメントするか は、きわめて今日的で重要な課題と考えます。書店にはファシリテーションやコーチング、ネットワーキング、合意形成といった「グループマネージメント」に 関連する書籍がたくさん並んでいます。
誕生パーティからスポーツ大会、企業行事、地域の祭、国際イベントにいたるまで、あるいはキャンペーンなどのマーケティング活動においても、「共通感情を分かち合うグループマネージメントとイベントの力」はますます重要な取組課題となっていくはずです。
イベントならではの『集団的創造』についてもひとこと述べます。創造活動というのは、あらかじめ決まった設計図にもとづく製作ではなく、制作に向かって いるプロセスそのもののなかで湧きあがり、全体像が浮かび上がってくるという側面を強くもちます。少なくとも目的に向けた効率的生産活動とは異なります。 創造活動とは不断の自己変革、自己創造であるともいえます。集団の自己変革を促すイベントの力に期待がかかります。
私はイベントにおけるマネージメントの要諦は、目的に向けて設計図どおりに合理的な判断を積み重ねるよりも、創造のプロセスを上手にコントロールするこ とと思っています。創造のプロセス(イベント準備)のなかで共感が生まれ、隠された本質の目的を発見することは珍しくありません。
集団の自己変革を促す集団的創造活動=イベントのマネージメントは、私の研究テーマです。詳細な内容は別の機会に。
以上、要点は「手段」といわれるイベントそのもの、あるいは制作プロセスに内在するイベントの豊かな魅力や可能性などの力、そしてプロセスそのものを重視するマネージメントの重要性と課題です。
昨年は、劇作家・評論家の山崎正和氏の『社交する人間』(中央公論社)が話題となり、私も大きな示唆を得ました。それからの引用で話を終えます。
「行動には目的と方法、目的と実現過程の二側面がある。そして前者が支配的であるときは功利的な行動が、後者が独立したときには遊戯的な行動が生じる。この遊戯的な行動が社交をもたらす」
この「社交」が具体的な形となったものが「イベント」と考えていいでしょう。
イベント大賞
今年、社団法人日本イベント産業振興協会が「日本イベント大賞」を創設しました。この賞はイベント制作に関わった人々の業績を顕彰するもので、12月16日の最終審査で、「愛媛県町並博2004実行委員会」が日本イベント大賞を受賞しました。
http://www.jace.or.jp “イベントを審査・評価する”というのは、なかなか難しいものですが、日本イベント大賞では、イベントにおける業績を5分以内の映像で自己紹介するプレゼンテーションを審査対象としました。 パワーポイントによるプレゼンテーション、DVDによる紹介などさまざまな作品が集まり、ホームページでは、第二次審査を通過した35作品が紹介されています。
http://www.qmug.jp/eventgp/ 私はこの賞の事務局の一員として、賞の部門設定、応募規定、審査基準策定などの業務にかかわってきましたが、「5分の映像でイベント審査」というのは、現実的に可能か有効か。はじめる前は、期待以上に不安もありましたが、いざ蓋をあけると、これがなかなか良いのです。
・5分の映像なんかで審査・評価できるのか?
・広告会社の作るプロの作品が有利ではないか?
といった、どうにも反論しようもない、もっともな心配を多数耳にしましたが、結果は杞憂でした。特にNPOなど「素人」の作品に、心を打つものが多かったのです。感動とは何かを改めて考えさせられました。「反論しようもない、もっともな心配」というものの不確かさも身にしみて感じました。
1本5分で35作品となると、175分。3時間近くになりますが、まあ、酔狂とおもって、年末年始のお時間のある折に、ご覧になってください。下手な映画を観るよりおもしろい。思わず魅入ってしまいます。
岩崎として特にお薦めするのは
・打ち水大作戦・日系ブラジル
・ペルー高校生による「ミューラル プロジェクト」
・パッチ・アダムスジャパンツアー2004
ですね。この3つには「イベントによる人間関係の形成が生まれていく」事例が、リアリティをもって示されています。誰にとっても、人間関係の形成という点で、これからの何かに、参考になると思います。人生イベントだあ!
「イベント産業の特性」への論考 3(結)
イベントの産業特性は、製造産業ともサービス産業とも基本的に異なるだろう。これらの産業が社会のインフラストラクチャーを形成し、日々の生活を支える骨格や動脈であるとすれば、イベント産業は、骨格や動脈に力を与え、活性化させる、いわば「ビタミン」としての社会的価値、経済的価値をもつと言えるのではないだろうか。
経済のソフト化、産業構造の転換が叫ばれて久しい。マクロの産業分類でいえば、工業からサービス業への移行であろうが、現場レベルでみれば、人の生産性が問われる時代である。人間の智恵、人間の発想、人間の行動力が資源となる。そして新たな時代を作るためには新たな人に会わなくてはならない。名刺が入れ替わらなくてなならない。21世紀の産業を作るということは、人間がそのようにして働く状況を作ることに他ならない。社会全体に及ぶ大きな構造改革にあって、改めて問われるのは、組織や人材の体質改善である。そのうえで、「人の心に強く働きかける」力により「集団の創造活動」を促し、様々な経済活動を活性化させる「シード(種)」を生み出すイベントの「ビタミン」としての役割は極めて大きいと思われる。
そうしたイベントの21世紀における社会的な役割を、特に3つの観点から整理する。
1 イベントによるネットワーキング
旧来からの組織と組織の関係、あるいは組織と人間との関係を改革し、新たな組織・集団のつながり、組織・集団における個々の人間の役割や帰属意識を自らの力で生み出すことが21世紀創造の大きな課題である。この課題を実践する方策として、イベントは格好のステージとなる。イベントは新たな出会いをつくるネットワーキングの実践であり、人はイベントへの参加を通して、ネットワークを広げ、マネジメントの領域を自ら拡大することができる。
2 イベントによるクリエーション
イベントには様々なクリエータが参加するとともに、集団的な創造活動を実践する場である。イベントは美術、映像、音楽、舞台など、様々な表現活動の統合であり、お互いのクリエータが相互に刺激しあい、切磋琢磨する場でもある。またイベントの来場者にとっても、最新の創造活動の現場を体験・評価する格好の機会となる。こうしたイベント体験の蓄積は、いま大きく問われている我が国の「創造性」を高めるうえで重要な意味を持つだろう。また、そうして開催されたイベントは、我が国の世界に向けたクリエビリティのショーケースともなるだろう。
3 イベントによるナレッジマネジメント
イベントは、それ自体が完結したプロジェクトであり、しかも計画どおりにいかない未知の部分を常に孕んでいる。イベントは規定だれない開かれた未来であり、それを成功に導くには戦略的なかつ、多様な「知の交流」が求められる。そこで蓄積されたノウハウは、イベント後の社会活性に大きく寄与する。地域イベントを通した地域ブランドの創造、展示会でつかんだ新商品開発のヒントなど、イベントによるナレッジマネジメントは、参加者の内に蓄積され、活力の源泉となる。
即ちイベントは、21世紀の我が国の構造改革を現場レベルで促進し、内在する人の可能性を触発し、新たな社会システムと創造性に富んだ商品・サービスを生み出す揺り篭としての可能性もつ。
「イベント産業の特性」への論考2
<論考1に続く>
ではイベントは投資対象として、どのような価値をもっているのだろう。それはイベントが固有にもつ時限性、参加性、体験性などの特質から考えることができる。イベントは基本的に、人と人とが何らかの形で出会い、情報を交換し、心を通わせ、或いは売買を行う、体験によるコミュニケーション活動である。ただしそれだけをとれば商業店舗も同様である。イベントの時限性、体験性、参加性とはどのような意味をもっているのか。
1 イベントの時限性
イベントがイベントである所以の第一は、時限性にある。時限性であるから、多くの人々の関心を集める対象・目的となる。時限性であるから挑戦や実験が生まれる。それ故に、そこでの体験は特別な価値をもったものとして記憶に残る。イベントがメディアを通すことで大きな収益事業となる理由もその時限性にある。メディアにとってイベントは貴重なシード(種)となる。・ イベントは期待を誘発する・ イベントは人を集める・ イベントは話題となる・ イベントは強い印象を与える・ イベントは記憶に残るこのように、イベントは時限性であることで、人の心を大きく揺さぶり、シード(種)として関連事業に収益をもたらす力をもっている。
2 イベントの参加性
次にイベントの参加性について考察する。よく言われることであるが、イベントは観る側と観られる側の区分が明確ではない。サッカーの観客を「12番目の選手」と呼ぶのは、イベントのそうした機微を言い得て妙である。観客は応援を通して、まさに試合に「参加」する。祭りにおいては観ると同時に観られることが楽しみである。さらに、イベントは制作にも多くの人々の参加を促す。本調査研究の取材対象となったイベントは、一般の人々の制作への参加が、イベントのパワーとなっている。イベントは「多くの人々が様々な形で参加する集団的な創造活動」という側面をもつ。ここで言う「創造活動」とは、映画や音楽のような、限られたプロのクリエータが作品を創り出す創造活動とは基本的に異なる。イベントの創造活動とは、多くの人々が参加することによって人のエネルギーを引出し、「限られた時間・空間」へと力を束ねることを意味する。時限性の集団的体験に参加することで共有する精神的な高揚感、集団のエネルギーはイベントならではのものであり、それは祭りやパレードなどの楽しみの源である。このように、イベントはその集団的参加性によって人のエネルギーを引き出し、束ねる力をもっている。地域活性化の方策としてイベントが着目される大きな理由がここにある。
3 イベントの体験性
こうした時限性ならではの期待感の誘発、集団への参加による精神の高揚は、商業店舗では提供できない。例をあげれば、フリーマーケットというイベントは、通常の商業店舗とは基本的に異なる。イベントは、日常にはない「特別な時の特別な体験」であることにより固有の意味をもつ。この数年来「経験価値」を重視するマーケティングが着目されている。消費者が重視するのはモノやサービスが提供する「経験の価値」であり、どのような経験価値を提供するのかがマーケティング課題であるとするものだ。そしてイベントはいま、その観点から着目されている。イベントという「特別な体験」を通して売り手と買い手が出会い、一体感を感じる。そんなコミュニケーションのあり方が、マーケティングの世界では模索されている。イベントは「特別な時の特別な体験」により、人と人との新たな出会いを生み出し、強く絆を結びつける。近年のマーケティング活動では最も重要な課題となっている「ブランディング」も、共に価値観や趣味を同じくする人々のコミュニティ形成という側面をもつ。NPOへの参加や趣味の仲間の形成も、「イベントを通したコミュニティ形成」という文脈のなかで理解される。このように、イベントは「コミュニティを形成する」うえで大きな力をもつ。そして「コミュニティ形成」は、人々の消費活動にも大きな影響を及ぼすファクターとなっている。
イベントは、旧来からの産業とは異なり、それ自体として高い収益をあげるものでも、広く市場に流通化されるものでもない。あるいは施設を事業の基盤とした継続的な運営によって収益を生み出すものでもない。イベントはその「人の心に強く働きかける」力により「集団の創造活動」を促し、様々な経済活動を活性化させる「シード(種)」を生み出し、広く社会に波紋を広げ、人の心を束ねるエネルギーとなる。「シード(種)」という点でイベントは社会的な投資であり、その回収はイベント単体ではなく、より広い見地に立った社会的効果としての評価が相応しいと考えられる。
Free Forum
Free Forum とは無料フォーラムではない。客席と壇上、館内と館外とのバリアを取り払った Berrier Free な Forum(集会)である。発案・命名者は私、岩崎 博である。
その秘訣は、携帯電話・携帯端末・パソコン(インターネットツール)の効果的活用にある。
いま、毎日、あちこちでシンポジウムやフォーラムといった名称の対話集会が開催されている。しかし、その多くは面白くない。たとえば壇上に出席者が5人いるとして、一人10分ずつ話せば50分。コーディネータが10分で話をまとめて1時間。これをもう1ラウンドやれば2時間で、終了となる。
これでは「対話集会」ならではの「対話」がない、活気や笑いといった会場を渦巻く雰囲気がない。そこで例えばこんなシナリオを描いてみる。
インターネットが出現して、何事によらず「事前に調べる」ことが一般的になった。であれば、会場でインターネットを使い、うまく出席者を事前紹介できれば、「対話」はより単刀直入なものになろう。
あるいは、「対話」のはじまる前に、客席に観客にいくつかの簡単なアンケートを行う。アンケートの回答は携帯電話で、結果はほぼリアルタイムに会場の大型画面にグラフとなって示される。この情報も、「対話」をよりリアルなものとする貴重な触発剤となるだろう。
「対話」の最中に、館外から集まったメールが整理され、これも大型画面に掲示。これはテレビ番組の「FAX意見募集」と同じ発想である。
このように、Free Forum とはシンポジウムに演出を持ち込んだものでもある。というと「それではデキレースじゃないか!」とも言われるが、いやいや、漫然と2ラウンドをまわす現在の手法が「デキレース」なのだ。
なお、このFree Forum は現在、いくつかの機会を狙って実現準備中である。
何とか成人式にこのスタイルを持ち込んでみたいと思っている。
私はFree Forum の宣教者たらんと願っている。